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「火垂るの墓」を久しぶりに観て思ったこと

映画
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先日録画していた映画「火垂るの墓」を観た。

この「火垂るの墓」、小学生の頃に観た時には泣いてしまったし(初めて映画を観て泣いた)、その後は中学生か高校生の頃に一度観た位。あまりの観た後のブルーになる感じに恐れをなして、その後は観ていなかったが、今回テレビであるとのことで、おっさんになった今、もう一度観てみてどう感じるか。何か考えるいいきっかけになったりするのではないかと思い、観た後は超絶ブルーになること不可避なんだけど、観た。

観た感想としては「戦争ってよくないよな」っていうことなんだけど、もう少し突っ込んで思ったことも色々あったので、その辺りをつらつらと書いていきたいと思う。

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小さい頃と観た印象が全然違う

小さい頃観た時は、とにかく大人達(西宮のおばさん、農家で清太をボコボコにして警察に突き出す人などなど)がもうとにかく優しくない人達ばかりで本当にクソだな。清太かわいそう、節子かわいそうという文脈でのみ観ていた。

しかしおっさんになった今観てみると、それだけ戦争というのは人を変えてしまうのだ。ということも思う。

おばさんに謝って家に置いてもらいなさいとアドバイスした方もいた。

まだ清太の年齢では、あれが助け舟だとは思えないと思うけど、そういう助けの手もあったように思う。でも清太はそういう人の中で生きていくことを選択しない・・・というよりも出来なかったのだろうなと思う。

でも、僕が清太だとしても、僕も同じ選択をしたと思う。ましてやあの年齢だ。あんな嫌味ばかり言われて、そんなことに耐えていこうとは思わない。自分たちでやっていこうと思ってしまうと思う。ある程度年齢を重ねて、適当に周囲に合わせる処世術とか見に付けた年齢ならば出来るだろうけど、清太と同じ年齢の僕だったら、間違いなく清太と同じ選択をしてしまっていただろう。

かといって、清太が悪いわけでもない。

かといって、大人達が冷たいわけでもない。

ああいう風に人を変えてしまう戦争が良くないし、そういう選択肢しかなくなるような状況を作り出してしまう戦争が良くないのだ。

人は優しくもなれるし、残酷にもなれる。

僕が特に怖いなと思うのは、集団が大義を掲げて誤った方に走り出した時。そういう時に人はどこまでも残酷になれるし、誤った方にどんどん行ってしまう。人としてどうか以前に、組織の論理が勝ってしまうような状況。

そこに同調圧力、世間体が加わるともう、一気に火垂るの墓の時代になれることだろう。

今でもそういう例は、いくらでもあるだろう。「集団」の単位が「国家」になった時、そして誤った方向が「戦争」であった場合は、再び同じことを繰り返してしまうかもしれない。

そうならないことを切に願う。

本当、戦争っていうのは、人を変えてしまうし、「窮すれば鈍する」状況にどんどんなってしまう。

そんな状況は悲劇しか生み出さない。

観た印象は子供の時から大人になって変化したけど、「戦争ってよくないよな」という感想は変化しなかった。

自分なりの平和への考え

僕はそういう活動家でもないし、ただの一市民だ。

ただ、生きていく上で平和に生きていく為のポリシー、というか美学、というか、気を付けようと思っていることがある。

それは、

  • 主語を大きくしない
  • 足るを知る
  • 他者を、そして自らを尊重する

これらは僕の大切にしている考えなんだけど、これは平和にもつながる考え方でもあるのかなと今回火垂るの墓を観て思った。それぞれのポリシーについて思っていることを書いていきたい。

主語を大きくしない

それこそ、さっき小さい頃に火垂るの墓を観た時の感想で「大人達は本当にクソだ」という、「大人達は」という部分。

火垂るの墓を観ながら、あぁ、僕は小さい頃主語が大きかったなぁと思った。

清太が西宮駅で最期の時を迎えたか、迎える直前、おにぎりを差し出す人がいた。

農家にボコボコにされて警察に突き出された際に、穏便に済ませた警官がいた(もうすこし突っ込んだ保護が出来ないものかとも思ったが、それはそういう時代だったのだろうと推測)。

西宮のおばさんに謝罪をして、置いてもらいなさいと助言した大人。

そう、「大人」といっても、色んな人がいる。善良な人もいれば、悪い人もいる。

「○○人は○○~」

「○○している人は○○~」

そんな感じの主語が大きくて、断じる感じの論調で話す人や考える人は多いように感じる。

でも、全員が全員そういう訳ではないし、主語を大きくして断じていく先に生まれるものなんて分断しかないと僕は思う。

だから僕は主語を大きくしないように思考するようにしているし、そうなりそうになったら「危険なサインだな」と思うようにしている。

足るを知る

とどのつまり、争いは何かの奪い合いだと思う。

人間の欲は果てしない。気が付くとどこまでもどこまでも欲が出てくる。

この欲は果てしないが故に、そのうち周囲も、自らも食い尽くしてしまうような勢いで増殖を続けてしまう。

「足るを知らない」状況は本当に怖い。これが国家レベルだったとしたら。

だから僕は日々思う。「足るを知ろう」と。

他者を、そして自らを尊重する

人はそこに至るまでにものすごい数の経験や学びの積み重ねで形成されていると僕が考えていて、様々な考え方や価値観があると思う。

その考えや価値観は、自分とは相容れないものもあるかもしれない。

そういうものを、受け入れるよう強要されるようなこともある。

そういう時に「あなたはそういう考えなのでしょうが、私はこういう考えなので、申し訳ありません」というような感じで、相手の考えを否定しないようにしている。

相手の考えを受け入れることはしないけど、尊重する。

結構これは大事だと思っている。

別に他者と正しさを争う訳ではないし、人の数だけ考えもあるし、正義もあるだろう。

そこは尊重するけど、僕は自分も尊重したいので、受け入れるかどうかは自分が決めるし、仮に受け入れなかったとしても、そういう自分も尊重したい。

結構この線引きが曖昧かつグチャグチャで、争いや不和が起こるケースは多い・・・というかほとんどの問題の根っこはこれなのではとすら思っている。

終わりに

火垂るの墓を観たら、色々なことを考えてしまって相変わらずの支離滅裂な文章になってしまった・・・・(;^_^A

「戦争ってよくないよな」

これに尽きると思う。日本は今戦争していないけど、世界ではまだそういう現実に直面している地域もある。これに関しては本当に早く終わりになったらいいなと思うし、こういうことを繰り返してほしくないと心から思う。

そして戦争のない現代の日本でも、大変なことはあると思うし、厳しい現実もたくさんある。

自分のポリシーを大事に、群れずにブレずに生きていきたい。

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