最近自分の思考を観察していると「頭が固くなってきたなぁ」と思うことが多くなってきた。
変化を拒みがちというか、適応を拒否するというか。
大した成功体験もないのに、今までのやり方、もっと大きく言えば生き方に固執していたり。
自己否定も過ぎると良くないのでアレなんですが、頭カチコチも如何なものかと思う今日この頃。
不変なものは、おそらくはない。
時間は流れに流れて、それと共に、世の中も、考え方も、どんどん変わっていくだろう。
個人の芯の部分は、変えずにいたとしても、その大きな変化には適応し、変化していくことが生きていく上では大切になるだろう。
「あーもうそれね!わからないから!話も聞きたくないし、見たくもない!うちらの時代はそんなのなかったから!」
意訳すると、そんな感じの態度で変化を見る事すら拒否するような人もいる。
それもまたひとつの生き方なので良いと思う。
ただ、僕はいつもこういう方を見ると、ダーウィンのこの言葉が頭をよぎる。
最も強い者が生き残るのではなく、最も賢い者が生き延びるのでもない。
唯一、生き残るのは変化できる者である。
チャールズ・ダーウィン
変化、適応していくことについて、つらつらと書いてみたいと思う。
甲子園に関するニュースを見て、ふと思った
こんなことを思ったのは、先日甲子園に関するネットの記事で「野球部で坊主頭ではないのはどうなのか?」的なものが出ていた。
僕は、「野球部は坊主」という謎の不文律がある時代に学生だったので、それが嫌すぎて野球はナシだった(今はハゲという名の坊主だが、それは別の話)。
その記事に関して思うことは、「坊主が強制なのは嫌だなぁ」ということ。
そういうことが個人の自由でないのは、嫌。
ここでも出てくる同調圧力。
「坊主なのは、昔からそうだから!」
「甲子園に出場する高校球児は坊主にすべき!」
とか、そんな感じなのだろうか。
確かに昔はそうだったのかもしれない。でも、時代は流れて流れて変化している。
変化には、良い変化も悪い変化もあるだろう。
どちらの意見にも、それ相応の言い分はあるのだろう。その是非を今回言及したいのではない。
このニュースを見ていて思ったのは、こうやって、
- 昔からこうだったんだ!
- 伝統的にこうだから!
- みんな、ずっとこうしてきたんだから!
と、どんなことでも変化を拒む方って一定数いるし、自分も年齢を重ねていくにつれてそういう傾向って出てくるのかなと、ふと思ったのです。
「俺たちの若い頃はなぁ」と言いたくない
こういう「今の若い奴らはなぁ」「俺たちの若い頃はなぁ」的なやつは、どの時代でも無限ループしているように思う。
確かにスポーツの所だけ見ていても、こういうノリで色々いう人はリアルでもネットでもよく見かける。
- 俺らの頃は、水飲めなかった
- 俺らの頃は全員坊主だった
- 俺らの頃は先輩にまともに口を聞くことすら許されなかった
- 昔はもっと上下関係が厳格で・・・・
- 口で教えるとかの前に、手が飛んできたからね!
挙げだせば、キリがない。
でも、時代は変わり、今これらをやったら厳しいだろうし、モノによってはアウトだろう。手が出るとか水飲めないとかは、完全にアウトだろう。
こういうことを持ち出して、スポーツでも他のことでも、「俺の若い頃はなぁ」というような大人にはあまり僕はなりたくはない。
あくまで、過去は過去。今は今なのだ。
時代は変わっていき、価値観や考え方も変化していく。それは、別に過去の自分のやってきたことを否定されている訳ではないのだ。
だから、別に自分の時のやり方や考え方と違ったとしても、別に良いのだと思う。
仮に自分の感性で、「違うな」と思っても、あまり軽々に口にしたくないなと思う。
頭柔らかく、飄々と楽しんでいたい
変わっていく流れの中で、きっと自分も様々に変化をしていく。
世の中もどんどん変わっていく。
その中で、自分の芯の部分は確固としたものを持ちつつも、変化に寛容で頭の柔らかい人でいたいと強く思う。
自分の価値観とは異なる考えや変化にも、「そういう考え方もあるよね!」と飄々として楽しんでいられるような人でいたい。
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