いつも、幼少期から引っかかっていることがあります。
「~だから、かわいそう」
って言っている人がいて、それが巡り巡って「~でなければならない」という強迫観念を生み出しているということに。
しかも得てして、「~だから、かわいそう」と言われることは、言われる本人にはどうしようも出来ないことであったり、「余計なお世話」であることが多い。
これを真に受けて、「自分はかわいそうなのか?そうあるべきなのか?」と悩んでしまう事もない。
自分の幸せは自分が決めればいいのだ。
あふれる「幸せの定義」
世の中には「幸せの定義」のようなものが溢れているように僕は感じます。
~歳になったら、結婚して
~歳になったら、子供を持って、
~歳になったら、マイホームを買って、
~歳になったら孫が出来て、
とか、
学校は進学校に行って、
企業は大手企業に就職して、
出世して・・・
とか、
他にも挙げだすとキリがないくらいにあります。
こういうの、一体誰が生み出したのだろうと不思議に思う。
僕、長い人生の夏休みになった時に自分がこういう謎の「幸せの定義」を「かなえるべきもの」として汲々としていたことに気づきました。
「幸せの定義」から漏れてしまったら、不幸なのか?
この「幸せの定義」から漏れてしまったら、不幸なのだろうか?
僕はそんなことはないと思う。
結局の所、幸せかどうかを決めるのは自分自身なのだから。
「かわいそう」と決めつけてくる人達
この「幸せの定義」を布教する人達として、「かわいそう」と決めつけてくる人たちがいます。
「一人っ子だから、かわいそう」
「アレルギーでみんなと同じものを食べれないからかわいそう」
「子供がいないから、かわいそう」
「結婚していないから、かわいそう」
「一人暮らしだから、かわいそう」
等々・・・・・。
この人たち、悪意もないし、「幸せの定義」に沿うことが幸せにつながると思っているので会うたびに、無遠慮にどんどん言ってくる。
今でこそ、適当に流せるようになりましたが、以前はすごく言われると心の中にトゲが刺さったような感覚がありました。
あまりしつこく言う人には「僕は別にそうは思わないので、その価値観を押し付けないで頂けますか(胡蝶しのぶさんばりの笑顔ギレで)?」と最近では言ってしまいますが(;^_^A
自分の幸せは、自分で決める
世の中には、謎の「幸せの定義」や「~だから、かわいそう」と言ってくる人たちなどいて、知らず知らずのうちに、「あれ?自分もそうすべきなんじゃないのか?」なんて思い出したらもう最後。
キリのない無間地獄に落ちます。
他人の目と他者の価値観に支配された「~すべき教」の信者として生きる羽目になります。
自分の中にある基準ではなくて、外部の基準なので終わりがないのです。
1つ、「~すべき」をかなえたら、次の「~すべき」。これが永遠に続きます。
そして、「~すべき」がかなえられないと「かわいそう」と言われ、自分は周りが全員かなえるべきものをかなえていない、かわいそうな人だと思い込んでしまう。
自分の幸せって、そういう外部の定義や他人から評価されるようなものではなくて、自分で決める。
そういうものだと僕は思うんです。
自分の人生を生きよう
他者の決めた定義や、評価に支配された人生ではなく、自分の人生を生きよう。
幸せかどうかは、僕自身が、その人自身が決める。
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