「努力は必ず報われる」
この言葉は、僕の苦手な言葉です。
昔スポーツをしている際に、ある指導者から「才能はない、身体能力も低い、完全な努力型」と評されたことがありました。
これは、僕にとって最高の誉め言葉だ。
「天才」とか言われた方が、嫌かもしれない。そこまで言われるような実績は残せなかったけれど。
そんな感じで、スポーツも、勉強も、仕事も、「努力型」と評されることが多い僕ですが、「努力は必ず報われる」という言葉が何故苦手なのか。
それは、
- 思考停止の努力は、失敗へと繋がっていく可能性があるから
- 努力することが目的になってしまう危険性があるから
努力していて、何か指摘されることはほぼなく、「良い事をしている」と見做されることがほとんどだろう。
しかし、それが必ず結果に繋がるかと言ったら別問題。
だからこそ、「努力は必ず報われるとは限らない」と思うし、そう思っていた方が良いと思うのです。
「思考停止の努力」は危険
なんかツラい事を耐えてやっていたりしたら、「努力している感」が得られる感じってないだろうか。
僕はあります。
趣味のランニングで、疲れていて休むべきなのにトレーニング計画を消化することを優先し無理やり走ってしまった時(後に故障した)。
仕事ですべての業務を全力でこなし、その日のうちに終わらせなくていいものまで残業してその日に終わらせていた時(数年後、過労でぶっ倒れた)。
受験勉強で、出題される可能性の低い所も完璧に覚えようとしている時(他の頻出する所を押さえてからやるべきだった)
部活で「試合でこんな展開ないよね?」という謎の根性練(のちに肉離れした)。
どれも一見がんばっているように見えるからこそ、質が悪い。
「努力」という言葉が付くと、ピントがズレていようが、的外れだろうが「がんばっている!」と免罪符が付くような感じがあることも「努力は必ず報われる」という言葉を苦手に感じる理由なのかもしれない。
「この取り組みには、どんな意味があるのか」
「これをすることで、目標に向かってどのようなアプローチになるのか」
こんな感じでチェックする第2の目線を常に自分に対して向けるようにしています。
「努力」の目的化の危険
何故、そんな第2の目線を用意するのか。
それは、「努力することが目的化するから」です。
何かの目的や目標に向かってしているはずの努力が、いつの間にか目的や目標はないがしろになって、努力すること自体が目的となってしまうことが度々あります。
努力に酔ってしまう感じ。
こうなると危険です。どんどん酔っていって、目的や目標からはどんどん遠ざかっていってしまいます。
「努力」という言葉が苦手だ
こうやって書いていくと、僕は「努力家」とか「努力型」と評されることはありますが、努力という言葉は苦手です。
何かこう、努力することに酔ってしまって思考停止に陥るような感じがするし、実際過去にそういうこともありました。
だから、「努力」という言葉とは距離を取って「準備」という言葉を使っています。
どの言葉をチョイスするにせよ、
「努力が報われるとは限らない」
と、いうことを常に頭に置いて、思考を続け、目的を明確に、酔わずに、楽しんで様々なことをしていきたいと思います。
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