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習慣は自分を守る盾になってくれるかもしれないという話

僕が思う事
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先日、自分ではコントロールできない範囲のことで、とんでもないことが起きていて、それが下手すると自分たちの方へ振りかかってくるかもしれないことが発覚した。

それは、場合によっては長年自分たちの人生に影響を与えることだったし、今までの自分らのしてきたことをおじゃんにしかねない事案だったのでかなり動揺したり、怒り、絶望し、とまぁ近年稀にみる勢いで落ち込んだ。

「なんでこんな目に遭いますかね」

「なんでこんな思いしなきゃいけないの」

と、グルグル回る日々。

それでもやってくる日々。

ここでヤケクソになることは簡単だけど、それは悪手中の悪手。

それはわかってはいるけど、弱い僕にとってなかなか難しいことだった。

詳細は伏せるが、その事案は自分でコントロール出来ないし、自分に振りかかってくることが確定した時点で損害を小さくすることが出来ることは知っているし、色々制度も調べた。

もう、その事案については、それ以外出来ることは残念ながら、ない。

それはわかっていても、モヤモヤし、怒り、絶望し、好きなことをしていても頭の中に常にそのことがあるような、そんな状況が続いていました。

そんな状況を救ってくれたのは、習慣。

僕の習慣は仕事に行くことと生理現象を除くと、こんな感じ。

  • 掃除
  • リクガメ達のお世話
  • ランニング
  • ブログ書くこと
  • 本を読むこと
  • ストレッチ等のケア

今回のことは、前述の通り現時点で自分でコントロール出来ることは限られている。

今出来ることが限られているので、今自分がいくら思い悩んでも、何も得することはない。

振りかかってくることがわかったら、動くのみだ。

そうは頭でわかっているものの、事案のインパクトの大きさに何をしていても頭の中でモヤモヤするし、日々のことをするのも億劫になってしまう。

気分を変えようと走りに行っても、頭の中はそのことばかり。

その事案が発覚してから、1週間位は、その事案そのものの地獄さ加減と自分で作り出した地獄にめちゃくちゃに苦しめられた。

それでも、短い距離でもいいから走った。

リクガメ達のお世話も最低限になってしまう日もあったけど、ちゃんとした。

部屋の掃除もガンガンした。

ブログもなかなか手がつかない時もあったけど、1文字でも、なんでもいいからいつも書いている早朝に起きるようにした。

ストレッチも、読書も、少しづつ再開していった。

そうやって、「落ち込んで、何もやりたくない。やる気が起こらない。」という状況から多少無理やりにでも習慣としていた行動に戻っていくと、少しずつ気分が軽くなってきたような気がする。

気分は軽くなったけれど「その事案」は、変わらずにそこにあるし、振りかかってくる時は来るだろう。そのことは変わらない。

それでも、習慣に戻っていくことで、あそこまでの激しい落ち込みはなくなった。

思考の中で「自分でコントロール出来ることと、出来ないこと」を仕分けする癖をつけていたことも大きかった。

今出来ることは、もうやったので、今これ以上思い悩んでも今の自分が損なわれるだけだ。

今回のことで、習慣は自分を形成していくものと思っていたけど、それだけではなく、自分を守ってくれる盾のようなものなのかもしれないと思いました。

そこにある事実は変わらないけど、僕の気持ちは習慣に戻っていくことで平穏を取り戻した。

習慣はすごい。

これからも、生きていく中で色々あるだろうけれど、習慣を大切にして生きていきたい。

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