先日、ランニングの時に着るウインドブレーカーを新調しました。
これ。
これから通勤ランで苦手な寒さから僕を守ってくれる新しい相棒です。
で、新しいものが増えたので、以前に使っていたものは感謝感謝の中お役御免しました。
長年着たものを最近でこそすぐに、「ありがとう、お疲れ様」と捨てられるようになりましたが、以前は「~の思い出があるから」とか「愛着が湧いて捨てれん」とかそういった感情があり、保管していることも多々ありました。
捨てる時に、「このブレーカー着て初めてのウルトラマラソン走ったなぁ」と思い出し、久しぶりに捨てずらい感情になり、「ああ、この感情懐かしいな」と思いました。
まぁそれでも捨てるのですが、結構この感情はモノを捨てれない数多くある理由のひとつで、結構この感情にはモノを捨てる際に苦しめられます。
それでも、モノが少ないほうが快適に感じるので捨てますが、この感情との僕なりの折り合い方について書いていきたいと思います。
1in1out
僕が自分に課している、鉄の掟。
「1in1out」ルール。
1個買ったら、1個捨てる。
これを守るだけでモノは増えなくなったように思う。このルールを自らに課すと「買う」行為も簡単にしなくなります。
今回ウインドブレーカーを買った時に、ランニングシューズも気に入って買いたいなぁと思ったのですが、「じゃあ、仮にこのシューズを買ったら、どのシューズを捨てる?」と考えたら、衝動買いを抑えられました。
こんな感じで、モノを衝動買いしない、増やさないように掟を作っています。
愛着、記念に・・・という感情との折り合い方
ミニマリストまではいかないものの、モノは少なくしたいと思って暮らしている僕。
でも、モノに対する愛着や記念の物を取っておきたいという気持ちは元々強いほうでした。
今となってはそういったものも捨ててしまっていますが、「愛着がある」「記念に・・・」「思い出に・・・」という感情との僕なりの折り合い方は、
- 未練が残らない位、使い切る
- その物がなくても、頭に感情と記憶は残る
この2つを意識してモノと向き合うようにしています。
未練が残らない位、使い切る
「もう使えないよ」
そう思う所まで使い切る。結構これ大切だと思っていて、使い切ったモノは「ありがとう」と迷わず捨てれることが僕の場合多いです。
その物がなくても、頭に記憶は残る
この画像は、僕が毎年出ている野辺山ウルトラマラソンのゴールまで10km切ってきたあたりの田園地帯。
思い入れのある大会だからか、頭の中に夕方に向かってどんどん気温が落ちてくる高原特有の空気感や90km以上走ってきた体の虚脱感、時々通る車から聞こえる「がんばれー」の応援の声、もう少しでゴール出来るという安堵感、すべてをまるで昨日走ってきたかのように思い出せる。
こんな感じで、自分にとって大切な思い出は全て頭の、心の中に残っているのだ。
こんな感じでモノを介さないと思い出せない、そういう思い出はないし、もしあったとしたら、それは僕にとってそこまで大きな思い出ではなかったのではないかと思う。
僕の、一番の大きな捨てモノはテニスラケットだった。
中学校から30歳で肩を壊すまで、ずっとやってきた。
ラケットを捨てると、自分の思い出やこれまでを全て否定するような、捨て去るような、そんな気持ちになるんではないかと思った。
だから、モノを減らしても、なかなかラケットは捨てれなかった。
もうテニスをすることはないし、仮にすることがあったとしても借りればいいだろう。
ある時に、思い切って捨てた。
悔やむかなと思ったが、悔やむこともないし、テニスに打ち込んだ日々は今でも僕の心と頭の中に残っている。
サイドラインに自分のボールが乗った時の快感。
朝、誰もいないテニスコートで練習する時の自分の打つボールの音だけが響く心地良さ。
大会でサーブを打つ時、会場の歓声が一瞬静まる、あの間。
夕暮れに照らされたテニスコート。
自分なりにがんばったけど、届かなかった目標。それに向かった日々。チームメイト。
やっぱりすべて覚えている。
可能な限り、シンプルに身軽にいきたい
大切なことは、モノを残しておかなくても頭に残っていると思うと、どんどんモノを減らすことが出来た。
でも、僕が何故モノが少ない状態を好むのか。
それは、未だに明確な答えがない。
可能な限り、シンプルでいたいという気持ちがある。
後は、身軽でいたい。
なんでかはわからないけど、少ない荷物で身軽に移動し、暮らすことに快適さを感じる。
「あれもない。これもない。あれも必要。これも必要。」
こんな状態では、きっと苦しい。
そうではなくて、「これで十分。問題ないよ。」そんな状態でありたい。
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