先日仮面ライダーBLACK SUNを観ました。
原作の仮面ライダーBLACKは小さい頃夢中になって観た仮面ライダー。
原作のオマージュをふんだんに入れながらも、現代への風刺たっぷりな「大人の仮面ライダー」でした。
「悪とは、何だ。」
「悪とは、誰だ。」
こんなサブタイトルもつく仮面ライダーBLACK SUN。
舞台は怪人と人類が共存する世界。
怪人を恐れ、差別する人々。
人間側にも、怪人側にも色々な人がいる。
この作品を見終えた後しばらく、「差別」と「知性」について考えこんでしまいました。
ランニング中も主題歌の「Did you see the sunrise?」がイヤーワームと化し脳内で無限に流れ続け、
「差別」
「知性」
この2つのことについて考えながら走る日々が続きました。
ある程度考えもまとまってきて、このようなことを考えることも滅多にないのでブログに書き残しておこうと思います。
なぜ、差別は起こるのか?
まず、なぜ差別は起こるのか。
このことについて考えてみました。
人って群れで生きる生き物。
群れの中にいるそれぞれの個体は、何者なのかがはっきりしていないと群れの中で生きられない。
そして何者かをわかった者同士で群れを作る。
きっとこれが、~族とかそういった類の集団になっていったのであろう。
他にも、人種とか、国家とか、ある種のアイコンで群れを形成していく。
その集団の安定を脅かすものは排除しなくてはならない。
別の集団。別の考えを持った集団。
自分達の知らない、未知の集団。
差別の根幹には、「未知のものを警戒する」というヒトに組み込まれた悲しき性があるのかもしれない。
知ろうとすること、理解することをあきらめないこと。
「未知のものを警戒する」
これはもう人間にプリインストールされたものだとするならば、どうしようもないのか。
僕はそうは思わない。
人間には、思考がある。
相手を知り、理解することが出来る。
理解できないこと、自分と違うものを排除するのは破滅の始まり
現在、インターネットで大概の分からないことは手軽に解決できる。
だからこそ、思考すること、わからないことを理解することに時間をかけられず、早急に結論を出し「排除」「攻撃」を選択してしまうような風潮が強いように感じる。
知らないもの=危険
未知のもの=危険
こんな感じで、知らないものを理解しようともせずに「危険」と見做して差別し、排除していないか。
これは、破滅の始まりであると僕は考えます。
それでも、人は群れで生きる生き物。
こういう事考え出すと、群れで生きるヒトという生き物は大変だと心底思う。
集団の中での序列に気を配り、
集団の中で少しでも上の位に位置するように汲々とし、
集団の中で上の者に媚びへつらい、下の者を時に見下し、
未知のものに対しては、思考放棄で「危険」と見做す。
こんな風に列挙していくと、いっそのこと世捨て人にでもなって山で一人で暮らそうか。
などと、思ってしまうけれど(実際に昔思い詰めてそう思ったことがありますw)、人に救われているのも事実。
人との関わりの中で、心が安らいだり、喜びを感じたりすることも事実。
そう思うと、
「やっぱり人は群れで生きる生き物なのだ」
と、思います。
人の性質、内なる自分を理解しよう
では、どうしていくのがいいのか。
僕はこんな風に思います。
- 未知のものに対して警戒してしまう「ヒト」としての自分を理解する
- 「ヒト」としての自分を理解した上で「人」として未知のことを知ろうとすること、理解しようとすることを諦めない
この2つを胸に留めて生きていくのが良いかなと思っております。
まとめ 結局の所、愛って知性だと思うんです
子供の頃は勉強できる人が知性のある人だと思っておりました。
大人になって思うのは、知性って、偏差値とかそういうのではなく、
「知ろうとすることを、理解することを諦めないこと」
だと思うんです。
で、それこそが愛とか言われるものなのか。
などと思うのです。
そんな知性があれば、差別というのものはなくなるのか。
それはわかりません。
ただ、少しでも優しい世界が広がりますように。
コメント