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「許す」ということ

僕が思う事
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昨年末から続く家庭事情対応

親族の住宅ローン破綻と多重債務の問題に巻き込まれ、今もなお色々対応に追われている。

当事者の人の学ぶ姿勢のなさ、他責思考、行動力のなさ、そういうことを目の当たりにしながらひたすらフォローし続けている。

時間的、精神的、金銭的な損害は多大すぎて、たまったものではない。

そんな状況、相手を前に、取り乱したり、大声をあげて当事者の人を怒鳴ったり、そういう行動には出ていないけど、自分の中でどうしようもない位怒りの感情が渦巻く時がある。

「鬼滅の刃」の胡蝶しのぶさんのように、笑顔だけど怒っている。

そんな感じ。

手続き等の為に会うたびにトンデモエピソードとポンコツクオリティを量産する当事者の人に対して、いい加減にしろよという気持ちが常に湧き上がってくる。

とはいえ、今の問題が片付いた後も血縁関係があることは事実で、法的に無関係ですということは出来ない(出来たらいいのにと思う事かれこれ1億回)。

そうなると、「許す」ということが必要になるなと思う訳です。

この「許す」とは、当事者の人を許すというのではなく、なんというか怒っている自分を解放してあげるというか、そんな感じ。

結局怒っているという状態は、自分の感情を損なっている訳で、いい事なんて何もない。

ただでさえ、当事者の人の問題で散々な目にあっているのに、そこに加えて常時怒っていたら他にまで悪い影響が波及しそうだ。

それを頭では半年前から理解しているけど、実行するとなると難しい。

悲しきかな、未熟すぎる。

僕の鍛錬はまだまだだ。

それでもそう思っている理由は「怒り」って感情は執着を生むような感じがして、なんか怖いから。

この件を対応している時も、そうでない時も、どんな目にあった時も、感情をニュートラルにしていたい。

「怒り」に任せて行動すると、ろくなことがない。

本当に残念な事実だけれど、人はそう簡単に変わらない。相手も、そして自分も。

当事者の人に対して怒りを感じる理由は、多大な損害をこっちにかけていることが一番だと思うけど、一番怒っている理由は、それに対して真摯に対応しないし、変わらないこと。

この変わらないことに対して一番怒りを感じている。

でも、人が変わるということは本当に難しい。

自分だってそうだ。怒りに執着しないようにと思っていても、怒りに囚われることがある。

自分だってそうなのに、他人を変えるなんて、無理なのだ。

まず、この立ち位置に立たないと怒りの感情からは解放されそうにない。

自分でコントロール出来ることと、出来ないことを区別すること。これがここでも重要になってくる。

なんかそんなことを徒然と最近は考えている。

結局「許す」って行為は相手のした行為を許す、というよりも、相手のした行為に対して怒りも何もない状態でニュートラルでいることなのではないかと。怒りに囚われそうになる自分を解放する。

なんか過去最高にまとまりのない、とりとめもない文章になってしまった気がするけど、「怒りの炎はいずれ自分を焼く執着の炎となりますよ」と、思うので、怒りに囚われずに淡々とやっていきたい。

そんなことを思う、今日この頃です。

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