お正月。
子供の頃、親戚の集まりなどに行くと決まって聞かれたことがあります。
「今年の目標は?」
「なりたいものは?」
子供ながら、とてもこの質問が苦手でした。
とりあえず、適当にそれっぽいことを答えてその場をやりすごす、非常にかわいくない子供でした。
そんな感じで、昔から長期スパンの目標が苦手でした。
「そんな先のこと聞かれてもわからないよ」
「その時の僕が、今の僕と同じこと考えていると思えないし」
そんなことを思っていました。
かといって、適当な事言ったらその言葉に縛られそうなのがとても嫌でした。
昔から変に真面目な所があるのか、
僕が変なのか、
自分の言った言葉に縛られる時があるんです。
言葉って良くも悪くも、力があると思うんです。
だから、この手の質問にはいつの日からか、とても慎重に答えるようになりました。
僕の苦手な、「目標」について書いてみたいと思います。
長期スパンの目標が苦手
「どんな大人になりたい?」
「なりたいものは?」
「夢は?」
「今年の目標は?」
昔からオタク気質丸出しで、読書に、特撮に、ソフトテニスに、プロ野球に、ランニングに、リクガメ飼育に、動物に、書くこと、と他にも様々なことが好きで夢中でやってきていました。
好きなことがたくさんあって、楽しいんだけど、それが人生の大きな目標となりえるかと考えるとよくわからない。
「目標なんてない。可能な限り健康でいて、好きな事をやれれば大満足です。」
それじゃダメですか?
というのが目標について問われると思うことでした。
僕がバカなのか、極めて近視眼的な人間なのかわかりませんが、すごく極端な事を言うと、
「半年後の未来なんてわからないし、明日のことすらわからねぇ」
こんなふうに、いつも思うのです。
自分の今大切にしているものが、自分の目の前からいなくなっているかもしれない。
自分が大切にしているものが、それほど大切でなくなっているかもしれない。
他の夢中になれるものが、目の前に現れているかもしれない。
そんなふうにいつも思っているので、遠い未来を考えると、
「ガラガラガラ・・・・」
と脳内でシャッターが下りてしまって、先が見えなくなってしまうような感覚がいつもありました。
そんな感覚を無視して20代の時に、
「もう大人なんだから、しっかり将来の計画性を持って生きるべきだ」
と思って生きていたら、とんでもない人生の袋小路に迷い込んで、かなり長い人生の夏休みを経験してしまったこともあります。
自分の心から出ていない偽りの言葉にがんじがらめになってしまいました。
大袈裟ですが、自分で自分に呪いをかけたような感じです。
その時は本当につらい思いをしましたが、今となってはその経験も必要なことだったかなと思っております。
そんな経験を経て、それ以降は原点に戻って無理に遠い未来のことは考えずに今夢中になれるものに夢中になってここまで生きてきました。
ある意味、未来なんて考えなかったからこそ自由に夢中になれたのかもしれません。
ただ、夢中になれるものをやっていたらこんな人になってしまった
「目標が立てるのが苦手」
と書いてきましたが、短期的な目標は立てていました。
それは、ある意味夢中になっているものへの加速エンジンのような役割で。
趣味なら、
「ランニングで3時間15分切り!」
「ウルトラマラソン完走!」
「リクガメ飼育本読みまくって飼育環境を点検する!」
「インターハイ出場!」
などなど。
仕事や勉強ならば、
「○○のことを勉強したい!」
「今月の強化月間、支店で1位取る!」
「今月は毎日一人一人のお客さんに自分から何か話しかける」
などなど。
こうして自分を振り返りつつ書いていると、
「どういうふうになりたいか?」
「何になりたいか?」
とか、時系列的に遠い目標や質問が苦手なことがよくわかりました。
短期的な目標は、どうやら立てて生きてきていたようです。
こんな感じでその場その場で夢中になれるものをやっていて、気が付いたらこんな感じの大人になっていました。
自分の無計画さには呆れてしまうこともありますが、これも愛しき我が人生と思っております。
これからも夢中で何かをしていたい
遠い未来の為に今夢中になれない何かをするよりも、今、この瞬間に夢中になれるものを夢中になってやってきました。
ひどく近視眼的な生き方だなと思い、計画的に人生設計出来ない自分を嫌だなと思った時期もありました。
ですが、生きている時間は未来でも、過去でもない。
今なのです。
だから、今の積み重ねの繰り返しが未来なのだと思っています。
未来に向けた、「計画性」と呼ばれるような地図はなくとも。
夢中になれる何かを道しるべに、これからも楽しんで生きていきたいと思います。
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